始めの一歩 トランスジャパンアルプスレース

企画委員会

(一社)愛知県山岳・スポーツクライミング連盟
副理事長 岩瀬 幹生

 今から26年前(1998年)、私は日本海から日本アルプスを越え太平洋までを、10日間で駆け抜けた。現在のトランスジャパンアルプスレースTJARの礎となったチャレンジ(試走)です。

 露営用具や食料などを4.3㌕に絞り込んでスタート。
この当時は、軽量な装備・ウエア・乾燥食糧などが無い時代。もちろんコンビニも存在しない。携帯電話も無いから、サポートしてくれた家族とも、なかなか連絡がとれませんでした。10日目に大浜海岸にたどりつき「山登りを始めたころから想い抱いてきた夢が、やっと叶った!」感無量でした。畑薙ダムからのロードは、もう身体がボロボロで歩くのも精一杯の状態でしたが、なんとかゴールすることが出来た。この時の体験が、「これから先どんなに苦しいことがあっても、乗り越えていけることができるのかなぁ」大きな自信につながりました。

 この時のコースは、現在のTJARのコースと前半で大きく異なります。富山県の泊(日本海)をスタートし、小川元湯温泉~朝日岳~白馬岳~唐松岳~五竜岳~鹿島槍ヶ岳~針ノ木岳、さらに槍ヶ岳~南岳~北穂高~奥穂高~ジャンダルム~西穂高~上高地に至るコースです。現在のコースより67㌖ほど長く、岩場・鎖場が数多くある難度の高いコースです。

 ゴールしたときの私には、「日本海~日本アルプス縦断~太平洋を短時間で駆け抜ける」という夢を達成したその先に、さらに短い時間で踏破すべく、仲間どうしでのトライアルで再び日本海から太平洋の縦走に挑みたいという想いがありました。「次は、同じような夢を持っている人たちと一緒にチャレンジしたい。日本海から日本アルプスを越えて太平洋までの縦走を、多くの人に叶えさせてあげたい」という構想です。単独での縦走は、そのための「試走」だったのです。

 実は、私はそれ以前の1993年にも試走をおこなっています。親不知(日本海)~栂海新道~白馬岳~後立山連峰~槍ヶ岳~横尾~鳥川林道~松本~諏訪湖~横手~甲斐駒ケ岳~仙丈ヶ岳~塩見岳~三伏峠まで。三伏峠まで10日ほどかかってしまい、タイムアウト。太平洋まで行きたかったのですが、会社のお盆休みが終わってしまって、断念しました。

 単独での2回の試走を経て、泊からのコースは後立山連峰や穂高連峰は岩稜区間も数多くあり、特に夜間行動は、とても危険であると判断しました。

 さらに、時間の問題があります。泊からのコースを、私は10日間かけて踏破しましたが、サラリーマンがとれるお盆休みには限りがあります。「だいたい1週間程度のお盆休みを取るのが精いっぱいだろうなぁ」期間は、1週間+αかつ安全なコースという方針を定めて、現在のコースに至っています。

 構想から9年――。2002年夏、TJAR第1回大会を開催しました。選手のひとり田中さんは直前に不参加となりましたが、私、加藤さん、小野さん、鈴木さん、そして仕事の都合で剱岳までのスポ
ット参戦となった中野さんの5名が富山県早月河口に集まりました。結果は、岩瀬ただ一人が完走。7日5時間7分という記録でした。

 31年前から始めた私と仲間たちのチャレンジが、TJARという今や国内でも一目置かれる壮大な山岳レースの誕生へとつながりました。1995年の単独日本アルプス大縦断からTJAR第1回が開催となる2002年の間も、TJARコースの一部試走を含め、さまざまなことに挑んできました。例をあげると、1997年8月:南アルプス・北岳~光岳ワンデイ(23時間12分)、2000年8月:スイス・マッターホルン快速登頂、2001年7月:北アルプス・立山~上高地ワンデイ(20時間1分)、2000年10月:日本山岳耐久レースでチーム優勝、年代別3位などです。
 私には、今なお思い描いている課題があります。それは「冬のTJAR」。つまり、TJARの冬山バージョンです。厳冬期と春の雪山シーズンに、すでにコースの一部を試走しています。2000年
1月:甲斐駒ケ岳~光岳5日、2005年4月:立山~槍ヶ岳1.5日などです。春は残雪が多いとラッセルがしんどいし、厳冬期は、寒さがとても厳しいけれども、いつか有志で挑戦できたらいいなと思っています。しかし、冬山での凍傷により、2010年に手足の指15本を切り刻んでしまった。また歳を重ねて、いつのまにか69歳のもうろくジジイとなってしまった。もはや、チャレンジするのは難しいだろうなぁ。この想いを引き継いでくれる若人はいないだろうか・・・